
第2期が始まった「香川県民文化大学」。
第1回目の講師である作家の「五木寛之」氏の講義のレポ

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現在日本は2つの顔を持っています。
その2つとは、「高度成長大国の顔」と「自殺大国の顔」。
今の、日本の年間の自殺者数は3万人と発表されています。
仏蘭西では、「表面に表れた数字の10倍が現実だろう。」と言われているそうで。
「3万人の死があれば、30万人の自殺を試みた人がおり、300万人が心に死の願いを抱きながらも、死への恐れや周りの事等を考えるゆえに生きているのではないだろうか。」とのこと。
正直、びっくりしました

実は、最近、五木さんの所への講演依頼が増えているそうです。
講演を依頼してくる企業のトップ3は、金融関係・IT関係・医療関係なんだとか。
現在、様々な問題(経営破綻や医療過誤、情報発信等)を抱えている業界だそうです。
某銀行の頭取に、五木さんが「どうして私に講演を依頼したのですか?。」と尋ねると、「実は。。。」と言いにくそうな頭取。
頭取曰く、「現在、私達の業界では、考えられないような問題(定年対象を間近にひかえた管理職が万引きで捕まる等)が発生しており、どうしてこのような信じがたい問題が発生するのかが、解らない。それならいっそ五木さんのような迂遠な話をしてくださる方の話にふれてみる機会を職員に設けてみるのが良いのでは。」とのこと。
「迂遠な話」とは、はるか遠くにある手の届きそうにない話の意味だそうです。
ちなみに、「迂遠な話」という言葉は、話を聴く側が使うのではなく、話をする側がへりくだって使う言葉なんだそうです。
聴く側である頭取の口からこの「迂遠な話を聴きたい」との言葉が発せられた時、五木さんは思ったそうです。
「日本語」という「言葉」が誤った使われ方をする「言葉の壊れた時代」であるならば、「人々の心が壊れて不可解な事件が発生する」のは仕方のないことなのかもしれない。と。
壊れた心が蔓延している世の中では「命」が軽んじられている。
自分の「命」を大切にできないから「他の人の命」も大切にできない。
自らの「命」を捨て他人の「命」も奪う。
「命」を奪うことに罪悪感も感じない。
そんな悲しい世の中になりつつあるのではないか…。
日本は、戦後50年間「躁の時代」が続き、2001年(アメリカで同時多発テロの発生した頃)あたりから「鬱」の時代へ入りました。
山登りで言えば、50年間で山の頂上へ登り、これからは山下りの時代です。
「鬱」には3つの感情があります。
・憂:心配する。
・悠:人は生まれてからは死へ向かう旅人であり、人生が有限であることを実感した時に感じる思い。
・悲:「慈悲」の中の「悲」の意味で、苦しみを癒す、ただ黙って側にいるの意味。
(人の悩みや苦しみはかわりに受けることはできないし、代わってあげて救うことはできないという現実に溜息をつく心の意。)
仏様の「慈悲」の意味をご存じでしょうか?。
「慈」は、明るく前向きな力。
「悲」は、何も言わずじっと見つめて共感しながら溜息をもらすこと。
側についていてあげること。
仏様は、「全ての人をもれなく救うために仏様となっていらっしゃる方」です。
その仏様が苦渋の表情である時は「世間病むがうえにわれも病む。」。
全ての人を救うことができないという事を知った仏様が「あぁ」とうめき声をあげていらっしゃるのです。
とはいえ、混沌としたこの時代では、優しく人間的な人ほど心が病んでしまうのはないでしょうか。病んでいる人の方が、人間らしい心を持っているのです。
例えば、自分の乗っている列車が人身事故で「復旧までしばらく時間がかかります。」のアナウンスが流れた時、事故にあった人の事を気にかけ憂える人と反射的に腕時計を見てしまう人。
どちらが、人間らしいでしょうか?。
憂えた人は暗い気持ちになりますが、時計を見た人は電車が走り出してしまえば元気に普段と変わりない生活を営んでいけるでしょう。
そう考えると「鬱」は、決して気に病む事ではないのです。
「鬱」状態になってしまうのは、人間らしい温かな心があるから。
「鬱」の言葉の意味は2つ。
・「鬱蒼たる樹林」等と使われる
草木が勢いよく繁りエネルギーがあることの意味。
生命力・エネルギー。
「鬱然たる大家」等と使われる
堂々としてオーラを発しているの意味。
・「鬱々たる気分」等と使われる
世の中や経済が人々のエネルギーを抑えつけることによって鬱々とす
る事態になるの意味。
つまり、「鬱」を感じる人は「エネルギーのある人」。
パワフルなエネルギーを抑えつけられているから苦しいのであって、蓋をされて抑えられている生命力をどうにかして奮起させることで、生命力がみなぎって元気になれるのです。
生命力が抑えつけられたなら、どうにかしてその生命力が発揮できる道を見つけること。
夏の山道と冬の山道では、服装も歩き方も違うように、歩み方を柔軟にして人間らしく生きていける進み方を考える。
これまでの「躁」の時代と同じ歩み方を続けようとするから無理が生じる。
「鬱」の時代には、「鬱」の時代の歩み方がある。
その歩み方を模索しながら、時代に適応した歩み方をする。
このことが、冬の時代と言われる今をしっかり歩んで行く方法。
冬の豪雪地帯では、「雪吊り」が行われますよね。
この「雪吊り」どんな木に行ってどんな木には行わないかご存じですか?。
「雪吊り」を行うのは「固い木」。
竹等の「よくしなう木」には行いません。
「よくしなう木」は、自分に降り積もった雪によって、ぐにゃっと曲がります。
大きく曲がることで、降り積もった雪を自分の身から滑り落として、身軽になって、又元の姿勢に戻ります。
人間の心も同じ。
「固い心」「強靱な心」は、悲しみや苦しみをず〜っと持ち続けて重さに耐えきれなくなった時に「ポキン」と折れて修復不可能になってしまいます。
「よくしなう心」「柔軟な心」を持っていれば、苦しみや悲しみを受けても、その苦しみを乗り越えることができる。
どうやって苦しみや悲しみを乗り越えるか?って?。
本居宣長の本の一節にこのような文章があるそうです。
「人は生きているかぎり、悲しみと出会う。その悲しい時は、ちゃんと悲しむこと。大声で泣いたりして悲しむことによって、その苦しみや悲しみが客体化された時、その痛み達を乗り越えることができる。」
「プラス思考」で元気に生きていく事も大切。
それに加えて、「悲しみ」や「鬱」という「マイナス思考の大切さ」も学びながら生きる。
落ち込んだり、屈したりという「マイナスの感情」もちゃんと受け止めて、しっかり落ち込んだり、悩んだりして、辛い時は辛いと声に出したり、大泣きしたりすることで、苦しみの重さに堪えきれずボキッと心が折れることは無くなる。
嬉しいときは喜んで、悲しい時は悲しんで、柔軟な姿勢を保ちながら時代を生きていく。
「喜怒哀楽」を大切な一つ一つの経験として受け入れて、しなやかに歩んで行けば、道は開ける。
心に元気をもらえる講義でした

五木先生に感謝

担当者と直に会って原稿を手渡すって事って、色んな意味で大事だと思うよ。
貴重なレポ、サンキュー(v^-゚)。
そういう方々の経験に基づく話を聴けるって貴重よん。
読ませてもらってる私もありがたいな(^O^)。
ありがと♪。
自分自身の記憶にしっかり持っておきたい講義だったので、レポってみた。
「しなやかにたくましく生きる力」が、これからの時代には必要なんだろうね。
わたくしも、日々精進せねば。。。。(←できるんかい???:笑)。